地元で起業日記 第一章②遊び場だった製材工場

山なお/地元で起業日記

山なお/地元で起業日記

2023年8月5日 16:34

僕は現在38歳で奥様と4歳の息子の3人家族。これから不確実な時代の中でも自分の力で稼げるようになりたいと地元で起業を目指している。起業準備中の今、なぜ僕がサラリーマンを辞めて地元で起業を目指したのかを過去を振り返りながら、書いておこうと思う。そして起業前のリアルな活動も2週間毎に更新して、稼げるようになるまでの出来事や様子を書き留めておこうと思う。先ずはこれまでの人生を振り返りながら、いつか僕と同じ様に自分の力で人生を歩もうとしている人に、少しでものお役立てば嬉しいと思う。早く稼げるようにならなければ、という焦りは勿論あるけれど、自分のrootsと向き合う事も重要だと思う。起業して稼げるようになるまでの日記を2週間毎に1年間更新していきます。

目次
■第一章 商売と僕(7回)
①母のお手伝いから
②遊び場だった製材工場
③豆腐とお米と新聞配達
④恩師との出会い
⑤木の自由研究
⑥おじちゃんおばちゃんが輝いて見えた
⑦田舎で磨かれた美意識
(第二章 営業と俺 7回予定)
(第三章 副業と私 7回予定)
(第四章 起業 7回予定)
2週間毎 土曜日更新(28回/1年間)

【②遊び場だった製材工場】2023.8.5
私が小学校生になってからは、祖父が経営し父が働く製材工場で良く遊んでいました。友達と遊ぶ以外は工場や山で走り回っていたように思います。祖父は製材工場、建具工場、林業を経営しさらに村議会議員をやっていて忙しく飛び回っていました。私が小学校に上がったのは、昭和から平成へと新しい年号に変わった少し後で、まだ将来への経済期待も残っていた時代です。建築材としての木材重要も多く30人を超える従業員の方が働いて下さっていました。日本の木材業界は平成3年のバブル景気崩壊後の景気後退の影響をじわじわと受け、平成8年以降に大きく木材需要の減少が始まります。
そんな事は当然知るよしもなく、工場を遊び場にしていた僕は丸太に登ったり、製材端材で遊んでいた事を思い出します。とくに製材所には柱や角材をカットするジャンピングソーという機械があり、その機械の周りに山積みになっている木っ端で積み木をするのに夢中でした。事務所にいるおばちゃんと木でチャンバラごっこをしたり山作業についていって見学したりしていました。そういえば、職人のおじちゃんにいじわるされて、樹液を舐めさせられた事を思い出しました。(笑)「すっごい甘いぞ!舐めてみな」と樹液がついた木を差し出されて、「ハチミツみたいだ、カブトムシやクワガタが食べるんだから本当に甘いんだろうな。」と思って人差し指ですくって舐めました。
樹液の味知っています・・・??

めっちゃくちゃ苦いです!!ゴーヤどころじゃないですよ(笑)おじちゃんは苦しむ僕を見ながら、大笑いしていました。
その頃から木は身近な存在で、木を使って良く遊んでいたんです。


【現在の2週間の取組】
平日は木工技術専門学校、週末は変わらず地元で製材の練習をしている。木工学校に通っている理由は基本技術を身に付ける為だ。なぜ技術を身に付けたいと思ったかというと、日本には古くから木を使う文化があり継承したいと思ったからだ。植林と木使いの最古の記録は「日本書記」720年にあるように、縄文時代、弥生時代から現在に至るまで木と関わり生活してきた。時代と共に変革してきた木工技術を学ぶ事が、現在の木使いに繋がると考えたからだ。
木工学校ではいわゆる伝統技術を学んでいる。手道具の使い方、手入れ、木の性質を学びながら木工製品を一つ一つ手加工で仕上げていく。実際には週5日毎日、多い時は8時間、少ない時でも4時間「鉋かんな」の刃研ぎをし、木工製品の加工を始めている。週末は作業場で製材の練習をしている。製材は木材流通過程で行くと、川上に近いポジションで木工制作は川下側である。考えてみると、私がやろうとしている事は戦前の暮らしの中で身近にあった営みで、現在では「地産地消」と言えばわかり易いと思う。近くの山に植えた木を大切に育て、必要に応じて適材適所に使っていた。それには各地域には山を知り、木を知り、活用技術を持った人がいたのだ。そうして人々は暮らしの中で、上手に山や木と共存してきたのだと思う。この2週間はそんな事を考えながらひたすら木材作業をしてきた。

次回は8月19日(金)に更新します。
■③豆腐とお米と新聞配達
■現在の2週間の取組

どうぞ、宜しくお願い致します。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次
閉じる